その52 みんなで文学を。

 の業界にいる人以外には、あまり知られていない気がするのだが、今年2010年は、国民読書年であるらしい。仕事で得意先の販売会社を訪問すると、食堂の柱にポスターがでんと貼られていたりする。そのポスターを見ていて、私は複雑な思いにとらわれた。なぜって、本を「読まされる」のはつらくて、つまらないものだけど、いっぽうで内容にかかわりなく読書には「読まされる」経験もどこかで必要だと思うからだ。

 これは「好き」という感情を考えるうえでの複雑さと同じだ。誰かを「好きになれ」と言われて好きになるなんて変だけど、私たちは必ずしも、誰かのことを100パーセント理解し、判断したうえで好きになるわけではない。意思の力なんて知れたもので、同じ金魚鉢に無理矢理入れられたら番ってしまうのが私たち生物の悲しさである。
 とは言え、好きになるほうの気持としては、あくまで知らず知らずのうちにハマってしまう、というのが自然だし美しい。読書だってそれは同じで、そんなときに「ここはひとつ国をあげて」なんて言われると、難しい気がするのだ。
 誤解のないように言っておくと、私はここで、国民読書年運動を否定するつもりはぜんぜんない。むしろ、国民にあまねく読書を強要したいおせっかいな気持はあふれんばかりにあるのだが、正面からさあ!と言っても誰も振り向いてくれなさそうだから、もっと巧妙に推進できないかと思っているだけだ。そのためには、本のダメなところ、妖しい魅力も含めて知ってもらうことが肝要じゃないかと思う。 
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 毒を抜いた本のつまらなさについて、印象に残っている話がひとつある。今年の3月に丸の内の丸善で行われた『謹訳 源氏物語』の発売記念講演会に参加したとき、古典文学者の林望氏が語っていたことだ。

「学校教育で教えられている文学は、目黒のサンマなんです」 
 殿のノドに刺さったら大変だから念入りに骨を取りのぞく。苦くてまずいと言われるからワタもあらかじめよけておく。教科書に掲載される文学はかくして、際どいシーンや反道徳的なうまみを抜いた淡白な代物になりがちで、それが子供の読書への興味を削いでしまっているという趣旨の話だった。

 ちょうど講演会の主題が、教科書には必ず載る国民文学の代表作『源氏物語』だったので、貞節を真っ向から否定する光源氏の行動がもたらす面白さや悲しみについて何ひとつ伝えられぬまま、古典というラベルを貼られて受験の道具にされてしまう源氏に対する残念さが強く伝わってくる話だった。
 それと対照的だったのが、講演会の最後に行われた林氏による現代語版『源氏』の朗読である。参加者には『源氏物語』の原文コピーが渡され、林氏自身が訳した該当箇所の現代語版をゆっくりと読み上げる。複製技術が発達していなかった中世に「ナレーションテクスト」として親しまれていた『源氏』の、本来の受容の形を再現した、それは独特な読書体験だった。

謹訳 源氏物語 一

謹訳 源氏物語 一

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 この話には後日談がある。ちょうどこないだのゴールデンウィーク紀伊國屋の新宿本店に「文学ワールドカップ」というフェアをひとめ見ようと出かけた帰り、立ち寄った専門書売場で藤原書店発行の小冊子を頂いてきた。帰ってそれをぼんやり眺めていると、そこにはリンボウ先生がある本について激賞する文章が載っていたのである。

 ペナック『ペナック先生の愉快な読書法――読者の権利10カ条』

 小説家であり、高校教師でもあるダニエル・ペナックが、その教室で、ひたすら傑作文学を朗読して聞かせるという教育経験を通じて、通俗な読書教育、たとえば、感想文を書かせたり、話し合わせたりと、ありがちな読書教育というものが、どれほど子供たちを読書の「楽しみ」から遠ざけるかということを発見し、論じた本で、これが実に正鵠を得た卓論である。(中略)とかく類型的で制度的な、俗論的読書教育の横行している日本において、すべての教師、読書人、教育家、児童文学者など、必読の名著である。
(小冊子「心に残る藤原書店の本」より)

 この推薦文を読んで、まさにこのペナック先生の教育法、先日の講演会で、林氏が語り実践していたとおりではないかと驚いた。あの話には元ネタがあったのだ。早速わたしは同じく藤原書店フェアを開催していた八重洲ブックセンター本店でこの本を購入した。そうして読んで、すごく興奮して、猛烈に人に薦めたくなった。

 よく行われた読書は、自分自身から救い出すのを含めて、すべてから救い出す。
 そして、何よりも、わたしたちは死に逆らって本を読む。(89ページ)


 本を読む時間は、つねに盗まれた時間である。(手紙を書く時間、さらには愛する時間とまったく同じように。)(143ページ)


 本を読む時間は、愛する時間と同じように、人生の時間を広げる。
 もし時間の使い方という観点から愛というものを考えなければならないとしたら、いったい誰がわざわざ愛に手を出そうとするだろうか。誰が恋する時間を持つというのか。しかし愛する時間を持たない恋人など見たことがないではないか。
 わたしには決して本を読む時間はなかったが、それでも好きな小説を読み終えるのを妨げるものは何もなかった。(同)


 読書と和解するための唯一の条件。それは読書と引き換えに何も求めないことである。まったく何も求めないことだ。本のまわりにどんな予備知識の城壁も築かない。いかなる質問もしない。どんな宿題も出さない。ページに書かれた言葉以外に一言もつけ加えない。価値判断をしない、語彙の解釈をしない、テクストの分析をしない、伝記的情報を求めない……「本の周辺のことをしゃべる」ことを絶対にしない。
 読書は贈り物。
 読む、そして待つ。
 好奇心は押しつけられるものではなく、覚醒されるものだ。(146ページ)

ペナック先生の愉快な読書法―読者の権利10ヶ条

ペナック先生の愉快な読書法―読者の権利10ヶ条

 このほかにも、ずっと覚えておきたい印象的な言葉がたくさん載っていた。本を愛する気持だけでなく、本が苦手な人たちへの優しさにみちているところがいい。この本には、これからの読書のありかたを考える上で重要なヒントがある気がする。すごく。(波)