その32 自分のブログへの愛想が尽きた時に読む本、4冊。

 分のブログを持つというのは、勝手に株券を発行する行為にどこか似ていると思う。その一握りは上場し、市場にあまねく流通し、いつの日か、アウディA5やポール&ジョーのコスメに変わったりするのかもしれない。でもそれはもちろん天文学的確率での話で、じっさいのところウェブ空間に漂う多くのブログは、公園のおままごとで使う葉っぱのお金も同然、すなわち遊び時間にちょっと盛り上がることが存在理由の殆どを占める代物である。

 だからブログに現実的な影響力を期待するのはおおむね間違っているというのは世の常識だろう。しかし、それはそれとして、俺、ブログはじめてみたらもしかして…と都合のいい何かを2ミリくらい期待してしまうのも人情である。で、やってみる。結果は火を見るより明らかだ。グループ魂も歌っているとおり、そこに待っているのは「オレのブログのカウント30!」という微妙な事態である。

ぱつんぱつん

ぱつんぱつん

 この当然の事実に軽く落胆した時はまず、自分がやっている「ブログ書き」という行為とはなんなのか、クールに見つめてみる必要がある。一種のショック療法として、山形浩主氏が書いた以下のような認識にもういちど立ち返るべきだ。

「企業なら、どこかで『アレは成果がなくて無駄だからやめよう』という判断が下される。しかし個人ではその必要はない。いつまでもいつまでも、その期待を先送りにしていい。……いまのままの自分に対していずれだれかが関心をもってくれるかもしれないという期待が、そこで価値を生んでいる。満たされない(であろう)期待だけが、そこではどこまでもふくれあがり、価値として存在し続けているのだ」

要するに (河出文庫)

要するに (河出文庫)

 山形氏はいま引用した「ネットワークのオプション価値」というエッセイのなかで、金融における「オプション理論」といまの個人ブログ隆盛の理由には共通点があると述べている。「株そのものの価値」が高いか低いかとは全然関係なく、このあとその株がどうなるか、という不確実性が高ければ高いほどその株の「オプション価値」は上がる。それと同じで、自分のブログに価値があるかに目を向けることなく「いつか、誰かが私を見ててくれるかも」という可能性の母数が高いというだけでブログに投資する価値を私たちは見出してしまっているというのだ。

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 それでも、親と恋人と友人と友人の友人たちしか見ていなくても、世界市民に向かって語りかけるバラク・オバマのスピーチライターみたいな文章をひねり出してしまうあなた。オーケー、アミーゴ。君は僕の友達です。そんなわけで今日は、ついどうしようもないブログを書いてしまう人々に、ちょっとの勇気と、勘違いの種を授けてくれる本を3冊、紹介します。

 まずは日本の作家、高橋源一郎のデビュー作『さようなら、ギャングたち』。解説を読むとこれはいちおう小説ということになっているけれど、私見ではこれは日本語で書かれた夢である。しかも「夢の話」などといった退屈で生易しいものではない。この本のページを読んでいるとき、網膜が捉えて頭に届けるイメージが夢なのである。こんなものが、出版され、文庫にまでなっているという事実。その自由さを知ったときの爽快感をぜひあなたに味わっていただきたい。

「『ささげー、銃(つつ)!!』
 わたしたちは構える。
『射て』!!
 わたしたちのおしっこの一斉射撃を受けた可哀相な古い名前たちは身もだえし、右往左往するだけで手を出すことができないのだ。
『くそがき!
 ねしょんべんたれ!
 おやふこうのばちあたり!!』
 精一杯いやみを言いながら古い名前たちは海へ向かって流れていった。」

 そして、何よりこの本には、自分の書いたものを読んでもらえないことについての、やさしい記述がある。

「わたしはたくさんの詩を書いてきた。
 しかし、わたしの詩の読者はいつも少なかった。その数はかなしいほど少なかった。
 わたしが20歳になるまで、わたしの詩の読者は三人しかいなかった。
 一人はわたしだった。
 わたしは、わたしの書いた詩をたんねんに読み、作者にファン・レターを出しつづけた。
『くじけずに頑張ってください。きっといいことがあります。ぼくが保証します。
 イジドール・デュカスさんは死ぬまでにたった一人しか読者がいなかったのに、いつだってトム・ソーヤーみたいに元気一杯でした』」

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

 続いては、アメリカ人作家トム・ジョーンズのエッセイ。彼が『なぜ私は書くのか』という本のために書いた「私は…天才だぜ!」という文章。私は、書くことに対して不安になると、いつもこのエッセイを読み返す。そして読むたびに笑い、励まされ、本を閉じた後には必ず、こういう面白い気持になれる瞬間を誰かに伝えたい、願わくば多くの人に!と一人盛り上がっている自分に気づく。

 トム・ジョーンズは、アメリカ中西部の田舎町に生まれ、ボクサー、軍人、コピーライター、学校の用務員という職業を経たのちに作家となった人で、このエッセイには、彼が作家になるまでに辿った長い道のりにおいて書く事をあきらめそうになったとき、どんな思いで立ち直ったかということが、情熱とユーモアたっぷりに記されている。

「適当なものを適当に書きとばして、それでがっぽりと金を稼ぐことなんてことはできっこない。全身全霊を傾けて書かなくてはならない。ウィリー・メイズは、金もうけができて有名になれたらいいなあと思って、その結果ジャイアンツのセンターを守るようになったのだろうか? それとも野球をプレイするのが好きで好きで、その結果としてそうなったのだろうか? とにかく野球が好きで仕方なくて、たとえ無給でもいいからプレイしたいと思っていたんじゃないかな?」

 偶然にも、名手ウィリー・メイズが、作家になるために重要な役割を果たしたと証言する作家がもうひとりいる。柴田元幸氏の翻訳で知られるポール・オースターである。彼は『トゥルー・ストーリーズ』という本に収録された「なぜ書くか」という自伝的エッセイのなかで、子供の頃スタジアムでばったり出くわしたウィリー・メイズにサインをお願いしたとき、自分が鉛筆を持っていなかったため、サインしてもらえなかったという苦い経験について書いている。この日の悔しさが忘れられなかったオースターは、以後、どんなときにも鉛筆を持ち歩くようになる。

「ほかに何も学ばなかったとしても、長い年月のなかで私もこれだけは学んだ。すなわち、ポケットに鉛筆があるなら、いつの日かそれを使いたい気持ちに駆られる可能性は大いにある。自分たちの子供たちに好んで語るとおり、そうやって私は作家になったのである」

トゥルー・ストーリーズ (新潮文庫)

トゥルー・ストーリーズ (新潮文庫)

 いつのまにか話が脱線して、作家になりたい人のためのブックガイドみたいになってしまった。けれどいま紹介した3人の作家には共通点がある。それは、無意味な葉っぱのお金を信じるところから、その偉大なるキャリアの一歩を踏み出したという事実だ。

 この事実こそが、病める過疎ブロガーたちを惑わす元凶であり、また同時に、かれらにその病める炎を絶やすべからず、と焚き付けつづける悪魔のような想念を抱かせてしまう。すなわち、彼らと私たちを隔ているのは、執拗さの程度に過ぎないのかもしれない、という考え方である。ああ、恐ろしい。(波)