その31 また恋におちてしまった。

 空気が冷たく澄んで星の美しい季節になった。この季節になると、鞄のなかの本が3冊になる。いつもは2冊、いま読んでいる本とその本が読み終わったときのための本を入れているのだけど、この季節に読みたいとっておきの1冊のせいで鞄がちょっと重くなるのだ。
読みたくなる文章は、ちょっと不思議なタイトルの短編。それはこんなふうに始まる――空気が冷たく澄んで星の美しい季節になった――

この季節がボクは大好きで、真夜中にコンビニエンス・ストアや貸ビデオ屋によった帰り道、水っ鼻をすすりながら夜空をよく見上げる。冬の夜空の星は豊かな果樹園に実る葡萄の粒のようで、手を伸ばせば届きそうに思われる。そんな星空を一分でも二分でも見上げていると、この世の瑣末な悩み事などどうでもよくなってくるし、自分の生き死にさえたいした問題でなく思えてくる。

 秋と冬のあいだ、この季節が一年でいちばん好き。夜は特に。ぴんと張った空気のなかを歩くと背筋がしゃんとする。冷たい風に頬を撫でられ思う、あの本をそろそろ読み返そうと。読みたくなるのは決まって深夜、窓の外に静かな夜が広がる時間帯。


 深夜に手紙を書くのはいけない、と誰かが言っていたけれど。深夜に1日のことを思い返すのはもっとよくない。大切な人を傷つけてしまったこと、想いがうまく伝わらなかったこと。自分と他者の関係性のなかで起こってしまったあれやこれやを反芻しているうち夜のふかいところに墜ちてしまう。心と体が離れてしまう感覚。上に残された思考がぐるぐるとまわり、自分はといえば下からそれを眺めているだけ。一度切り離された気持ちは、なかなか身体と繋がってはくれない。前に進めない、後ろに戻ることもできないもどかしさに途方に暮れるだけ。そんなときにわたしを助けてくれるのは、こんな本。

世界で一番美しい病気 (ランティエ叢書)

世界で一番美しい病気 (ランティエ叢書)

彼はこんな夜を「心が雨漏りする夜」と言っていたっけ。


 文庫サイズのハードカバー。持ち歩くのにちょうど良いサイズの1冊。短編ばかりだから、どこから読んでもいい。でもわたしは173ページからと決めている。「サヨナラにサヨナラ」。ちょっと不思議なタイトルのついた短編。冒頭の一文を読む。心が少し落ち着いて来る。一段落を読む。心が身体に戻ってくる。

職場の人間関係に悩む友人へ、失恋し傷心の友人へ、結婚が決まった友人へ。誰かとの関係に悩む人、これから新しく関係を結ぶ人にはこの本を贈ることにしている。易しい言葉で優しく書かれた、ページにして僅か4ページの短編。これは世界で最も美しくやさしい教則本だと思う。何についての? ――人についての。

僕は奇妙なことに考えついてギョッとしたことがある。
我々はこうして夜空に「過去」を見ているわけだが、それなら厳密にいえば、我々が目にするもの森羅万象、何ひとつとして「現在」のものはない。我々が見ているのはすべて「過去」なのである。


 新聞、映画、テレビにラジオ。さまざまなメディアのなかで本はちょっと特別なポジションにあると思っている。その一番の理由は本の持つ可能性の広さ——時間を経ても色褪せないところ——である。音も映像もない、だからこそ活字のあいだに立ちのぼる景色に違いがあらわれる。それは小説に限った話ではない。たとえばこのエッセイ。読み進めるうち、あなたの見ている景色のなかに誰かが顔を覗かせるだろう。そこでどうするか? 活字の森のなか、あなたはその人に手を伸ばすべきだ。一言、声をかけるべきなのだ。

海外へ電話をすると、相手の答えがほんの少しの間合いでずれるが、あれをもっともっと微細にしたようなことが視覚の世界でも起こっているわけだ。たとえ僕の目の前のテーブル越しに、愛する人が笑っていたとしても、それは「無限分の一秒」過去の笑顔なのである。

誰かを想う、そのあいだに一秒一秒時間は過ぎてゆく。その一秒のあいだに何が起こるかは誰にもわからない。想いが薄れるかもしれない、消えてしまうかもしれない、相手を見失うかもしれない。ならばそれをぎゅっと抱きしめておくことが必要なのではないか。心は気を緩めると簡単に身体から離れてしまうから。一旦身体から放たれてしまった心は、探してもなかなか見つからない。相手の心をああだこうだと推測し、あれこれと悩む慎重さよりも自分の心に漂う想いを言葉という形にして相手に差し出す勇気がほしい。息を潜めてじっと隠れていたつもりが、足下をさらわれてしまった。恋なんて、と思っていたのにまたも足掻いているわたし。この短編の最後の5行に背中を押してほしくて、わたしはこの本を開くのかもしれない。


朝がきたら、あの人に連絡をしてみよう、と思う。


この本を読むときに必ず流れているのは、こんな音楽。

AIR’S NOTE

AIR’S NOTE

OpheliaからCrystallized、Anyへと続く構成の美しさと音の静謐さは、この短編を音楽にしたよう。ジャケットのイラストに描かれた二本の腕が、この短編のラスト5行とリンクしている不思議。(歩)