その22 旅は道連れ世は情け的な本。

 男はよく旅に出る。いつも一人だ。孤高を気取っている訳ではなく、本当は寂しがりなのだが、人格に大いなる問題があるため道連れになるような友がいないのである。だから男には本しかいない。
 男が考える旅の本の条件は次の通り。

  1. ある程度厚いもの、でも重くないもの
  2. あまりスイスイ読めないもの
  3. 途中で投げ出さないもの
  4. できれば旅の中身に関係あるもの
  5. 合計で自分の読むスピードにあった量を

 (1)や(2)は、数時間で読み終えてしまうようなエンタメ作品だと、何冊持って行ってもきりがないと言うことである。(3)も重要で、特に海外だと替えがきかない(現地の本屋で英語のペーパーバックを探すという手もあるが、男の語学力だと正直きつい)ので、「読んでないけど、この本はきっと好きになる」という確信がなければならない。(4)はいいとして、(5)は難しい。1ページ1分と計算しても、旅の途中でどれくらい本を読めるものか? 欧米への飛行機なら十数時間かかるので、500ページくらいの本なら読めそうだ。夜行列車も読書向きである。でも一方で、旅の途中は意外と忙しくて(一人旅は道に迷ったりアテを失ったり乞食に声かけられたりトラブルの連続だ)、読む暇なんてないかもしれぬ。かといって旅先で日本語の活字がなくなったら死んでしまう。詩集でも一冊入れていけばいいのだが、残念ながら男は根っからの散文的性格である。
 ふつうの人が悩む旅先のファッションにはまったく頓着しない(インターネットで旅先の天気予報を検索して、気温にあった服を二三枚放り込むだけだ)代わり、本はギリギリまで悩む。男は心配性なので読めもしない量の本を持って行って、重いトランクを手に汗することが多い。今回はどうだったか。


 一冊目。長嶋有夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)いきなり(1)(2)に反する、薄くて読みやすい本だが、男は先日ねたあとに朝日新聞出版)という、漱石の『猫』に連なる暇つぶし文学の大傑作を読んでから長嶋有づいており、旅の前日に読み出してしまったのである。この本は古道具屋の二階に住み込むあてのない青年を主人公に、合理的でがつがつした生き方に静かに反旗を翻す、現代のレジスタンスを描いたものである(ちょっと嘘)。成田空港の出発ロビーで読了。
 二冊目。アン・タイラーもしかして聖人文藝春秋)これも(1)に反する、ぶ厚いハードカバーだ。タイラー作品に派手さはないけれど、日常生活を描かせたらその豊かさで右に出る者はいない。今作の主人公は兄に奥さんの浮気を告げたあと、その兄と奥さんを事故で失ってしまった青年。自分の余計な一言の罪をどう償っていくのか、青年は怪しげな新興宗教に入信してしまうのだが…下手な作家はここまででおしまいだが、タイラーの筆はここからが本番である。ベルリンへの飛行機では読み終わらず、ポーランドの古都・クラクフまでの夜行列車で読了。


 読み終えて始末に困っていた二冊だが、プラハで民宿を経営している日本人の夫婦が本好きだというので喜んで置いていくことにした。たしかにチェコ国内で日本語の新刊を手に入れるのは限りなく難しい。アマゾンで注文したり、帰国したときに段ボールでまとめ買いしたり、パリのジュンク堂ブックオフへ出かけたりするのだという。


 三冊目、フランツ・カフカ城―カフカ・コレクション (白水uブックス)実は買ったのは文学部で向学心にあふれていた学生時代なのだが、カフカの生まれ育った地を訪ねるこの機会でもなければ読む機会もなかろうと、あわてて実家の本棚から引っぱり出してきたのである。カフカ的不条理なんて言葉もある通り、話の筋はわかるようでわからない(でもわからないようでわかるから不思議)が、主人公Kを取り巻くキャラクターが魅力的で、読みふけってしまう。民宿夫婦のためなんとかプラハに置いていければと思ったが、結局ベルリンへのインターシティで読了。
 四冊目、森鴎外 (明治の文学)筑摩書房)男は大学で日本近代文学を専攻していたはずだが、『舞姫』を読めなかったのは長らく秘密にしていたらしい。今回注釈の充実したこの本で初めて読んで感銘を受け、翌日ベルリン市内の鷗外記念館で知ったかぶりをしていたのは内緒だ。
 五冊目、池澤夏樹パレオマニア 大英博物館からの13の旅 (集英社文庫)本に挟んであったレシートを見ると、昨年9月に購入している。どうやら一年前ロンドンを訪ねた際、大英博物館に行ったはいいが、世界史・考古学的な知識のなさゆえにまったく歯が立たず(今さら思うのだが学校の勉強というのはきっちりやって置いた方が絶対いい)、慌てて買い求めたものの、積ん読になっていたらしい。でも、懲りずに訪れたペルガモン博物館の、アッシリアのイシュタール門について記述が出てきてうれしくなる。帰りの飛行機で3分の2ほどまで。


 結局、ヨーロッパまでただの漬け物石に終わったのは、トルーマン・カポーティ冷血 (新潮文庫)西岡常一木のいのち木のこころ―天・地・人 (新潮文庫)の二冊である。いつもは半分消化で御の字なのだから、これは頑張った方ではないかと、男は自讃するのであった。
 十日も漫遊していたくせに旅の話一切なしという不思議な旅行記。(藪)