その15 事実よりも信用できる小説を。

 説とノンフィクションの違いについて少し時間をとって考えたことのある人なら、その違いは「ルール」にしかないということに、きっと思い至るはずである。「この物語はフィクションです」という断りひとつあるかどうかが決め手なのだ。

 突然こんなことを書いたのも、さいきん「事実」と「フィクション」の間にある情報こそ重要ではないか、と感じることが多いからだ。新聞やTVニュースはいわば「事実」という厳格すぎるルールに従って、広告主と取材源という口やかましいセコンドの指示を受けて戦うプロレスラーであり、小説をはじめとする文芸作品は「フィクション」という烙印を盾にして無制限デスマッチに走り誰にも信用されなくなったならず者たちの独り言。そんなふうに極論したくなる時がある。片方は情報量が少なすぎるし、もう一方は影響力が少なすぎる。事実よりも寛容で、単なる絵空事とはいいきれない切実な文章が読みたい。そんな需要は常にあるような気がします。

 今日のテーマは「事実よりも信用できる小説はあるか?」これです。勿論答えは「ある」に決まっているのだけれど、この主張を納得してもらえるよう、さしあたって事実がいかに頼りにならないかについて書き、しかるのち「事実をしのぐ小説」とはどんなものかについて、私が知っていることを書きたい。

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 私が事実のあやうさ、恣意性について思いを強くするきっかけになったのは、新聞社でアルバイトをしていた頃に始まった戦争だった。「イラク戦争」である。
 2003年3月の開戦直前、米国がイラクに侵攻するにあたって根拠としたのは「大量破壊兵器の脅威」だった。今となってはそんな大義とは関係のないところで武力行使が決定されたことは明らかだし、米国で調査団を率いたデビッド・ケイ氏も翌年になってから「証拠一切なし」という声明を発表したが、私のいた新聞社は当時、戦争に反対こそすれ「兵器の有無は侵攻とは関係ない」とは書かなかった。

「戦争しなくても大量破壊兵器を廃棄させる可能性が残っていたのに、ブッシュ政権は制止を振り切るように武力行使の道を選んだ。私たちはこの戦争を指示しない」

 大量破壊兵器をなくすこと、が問題なのではない。それがなくても攻め込もうとしたから、米国とフランスは喧嘩したのだ…。上の社説を読んで頭の奥でがーんという音が聞こえた。そのとき強く悟ったのは「まちがった問題設定に対しても、事実報道は正確な答えをだそうとする」ということである。新聞が事実の確認をしている間に、市民と兵士はどんどん死んでいった。

 この一件をきっかけに私は新聞社を去り、就職もきっぱり拒否して市民運動家となった…となればカッコいいのだが、事実はそうではない。私は奨学金と学費の残りを支払うため、ちゃっかり卒業までアルバイトを続け、粛々と就活し、メーカーの営業マンになった。でも、そこに至るまでのしばらくの間、深い混乱と無力感に襲われたことも事実である。

 そんな無気力状態のときに読んでひどく共感した本がオブライエンの『本当の戦争の話をしよう』であった。とりわけこの本に収録されている「レイニー河で」という短編を読んだときの印象が、今もずっと残っている。

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

 米軍がヴェトナムに侵攻した1968年、21歳だった主人公オブライエンは、大学では「穏健な反戦的態度」をとっていた。

「そう、私は若かったし、政治的にはナイーブであったけれど、それでも私はヴェトナムにおけるアメリカの戦争は間違ったものであるように思えた。確かならざる大義のために、確かな血が流されていた」

 しかしそんな彼の態度も、自宅に徴兵通知が届くことによって揺さぶられる。反戦を貫くために家族も学業も捨ててカナダに逃亡するか、通知を受けとってヴェトナムに行くか。決めかねた彼は混乱したまま車を北に走らせる。カナダとの国境「レイニー河で」かれが見たもの、思ったこととは何だったのか。そして主人公が下した決断とは…。

「私は自分の良心が恥ずかしかった。正しいことをすることが恥ずかしかった」

「私は息をすることができなかった。私は浮んでいることができなかった。どちらに泳いでいけばいいのかもわからなかった。これは幻覚だったと私は思う。でもそれはどのような現実にも負けないくらい現実的だった」

 この短編を読んだ後、私はアルバイトを続け、就職をする決心をした。今でもその理由はうまく説明できないけれど、もしこの小説がただの独白、戦争を経験した者の手記として、つまりノンフィクションとして語られていたらそれほどの説得力を発揮しなかっただろう、ということだけははっきりと言える。

「オブライエンは、自分の生身の体を虚構に突っ込むというリスクを引き受けてまでも『本当の戦争の話』を読者に向かって語りかけたかったのだ」(「訳者あとがき」より)

 事実を「つくりもの」として語ることは、文章の価値をある側面から殺すことである。でも事実の記述をやめるかわりに、作家はフィクションのなかで人に命令したり、要請したりすることができる。私にとって「レイニー河で」は「大義なき戦争はやめろ」とか「国土保全のために米国に従うべし」といったストレートな主張よりもずっと強く心の襞に食い込んで、行動の支えとなった。

 自分が認めたくないもののために働いているうちに、だんだん精神を消耗させてしまっていま何もやる気が起きない。そんな人はぜひ、この短編を読んでほしいと思う。クリアカットな答えはどこにも書いていない、でもそれだけにリアルで、主人公の苦悩に身を沈めているうちに、なんとなく光明というか覚悟というかよくわからないものが沸いてくる。そういう不思議な一篇です。

 ところで、ヴェトナム戦争時に、マーヴィン・ゲイが歌ったという「What’s going on」のような反戦の名曲が、イラク戦争のときにあったっけ…といろいろ思い巡らしてみたけど、これが全然思い出せない。いろいろウィキペディアで検索していたら、ハイスタがカヴァーしていた「雨を見たかい」が反戦ソングとしてアメリカで放送禁止歌になっていることを知った。

ANGRY FIST

ANGRY FIST

 でもたしかこの曲、日産セレナのCMソングだったと思うんですけど。そんな歌で車売っちゃっていいのかよ、日産…(波)