その1 日々の仕事がいやになったとき、開く本のこと。

 本について語るのは難しい。
「面白かったよ〜」「あ、そうですか」
で終わってしまうと、そんな話はやめておこうかという気になる。たまたま趣味が合えばいいけど、もともと好きな人と、好きを確かめ合うことってときに空しい。

 一冊の本を「面白い/面白くない」というのは人それぞれだから…と誰かに言われるといつも、ちょっと違わない?と思ってしまう。問題は趣味ではなくて、立場ではないかと思う。15歳の私と27歳の私とで面白い本が異なる理由は、きっと求めているものが違うからで、どんな風に精神が飢えているのかを細かくつきつめれば、誰にとっても(ある状況にかぎっては)面白い本をみつけられるはずだ。

 私は最近、本ってドアに似ているなと思う。
 人間はだれにも生まれながらの欠落があって、そこに開いた穴を入り口にして誰かと交信している。本を読んでいると、その開いた危険な穴を、ふっと塞いでくれるような一文に出会うことがある。誰かと同じ本が好きだ、ということ、すなわち同じ形のドアがはまるということは、きっとそこに同じ形の欠落があるのではないだろうか。

 本の好き嫌いは「趣味の問題」ではないということを証明すること、そして、本について語る方法として「自分の弱り具合」についての語りを提案することを、このブログでの私の目標にしたいと思います。


 そんなこんなで、きょうの一冊。仕事や勉強の意味が見出せなくなった人に、すすめます。

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

 1919年、社会学マックス・ウェーバーミュンヘン大学で学生に向け、学者という職業がおかれている現状と、学者がとるべき心構えについて語った講演を収録した本。ウェーバーの代表作といえば『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』といわれている。でも『プロ倫』は厚くて難しいので初めて読むなら、薄くて安いこっちがいい。

 この本を読み終えたとき、私は「なぜ勉強をしなければいけないのか」という長年の疑問が解けた!と思った。爾来、学校の勉強や試験からは解放されても、いやな仕事とか、休みの日にやる簿記の勉強とか、そんなもろもろ、面倒くさい仕事へのモチベーションを失ったときは、この本のことを思い出すことにしている。

 この本のなかでウェーバーが語っていることは単純だ。
 それは「私たちは幸せになるために勉強(や、仕事)をするのではない」という真実である。

 私たちはよく、何か面倒くさい作業に直面したとき、その作業と究極の幸せとの関係を探そうとする。そして「複式簿記とか、二次関数なんかわからなくても死にやしないし、もっと人生には大事なことってあるんじゃない的な…?」などと思ったりする。でもその問いの立て方はまちがっているのだ、というのがウェーバーの主張である。

 この本にはこんなトルストイの発言が出てくる。トルストイは、学問は無意味だと言うのだ。

「それは無意味な存在である。なぜならそれはわれわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごともを答えないからである」(42p)

 ウェーバーは、この発言に対し以下のように答えている。

「学問がこの点に答えないということ、これはそれ自身としては争う余地のない事実である。
問題となるのはただ、それがどのような意味で『なにごとも』答えないか、またこれに答えないかわりにそれが、正しい問いかたをするものにたいしてはなにか別のことで貢献するのではないか、ということである」
(43p)

 また、こうも語っている。

「満堂の学生諸君! 諸君はこのようにわれわれに指導者としての性質をもとめて講義に出席される。だが、そのさい諸君は、百人の教師のなかのすくなくとも九十九人は人生におけるフットボールの先生ではないということ、いな、およそいかなる人生問題においても『指導者』であることを許されていないこと、を忘れておられる。考えてもみられよ、人間の価値はなにも指導者としての性質をもつかどうかできまるわけではない」
(59p)

 ここからは私の想像だけど、ウェーバーは、何が幸せか?とかいった価値観にまつわる問題は、人の生まれつきの条件がみな異なる以上、一致をみることがないと知っていたのだろう。
 けれども、学問や仕事に打ち込めば、こうすればこうなる、という因果関係を明確にすることができる。そして何かに打ち込むことで生まれる「手段がもたらす充実感」というものが世の中にはあって、それはその作業の究極的な意味とは別のところで、比較的公平に手に入る種類の生き甲斐なのだ、といっているように思う。

「第三者にはおよそ馬鹿げて見える三昧境、こうした情熱、つまりいまいったような、ある写本のある箇所について『これが何千年も前から解かれないできた永遠の問題である』として、なにごとも忘れてその解釈を得ることに熱中するといった心構え——これの無い人は学問には向いていない。そういう人はなにかほかのことをやったほうがいい。なぜなら、いやしくも人間としての自覚あるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである」
(22〜23p)

 何かの作業がつらくなると、上の引用の最後の一行を私はいつもマントラのように唱えることにしている。けっこう効きます。

 ところで、この本には効用もあるけど、問題点もある。
 それは、一度ウェーバーの考え方を理解してしまうと、たとえばTMNの『Self Control』という曲のなかでT・UTUが「教科書はなにーも 教えてはくれないー」と熱唱する部分がまったく胸に響いてこなくなることだ。

Tetsuya Komuro Presents TMN black

Tetsuya Komuro Presents TMN black

 同様に、尾崎豊の『十五の夜』とかにも若干、影響がある。(波)