その135 誰よりも自分に薦めたい一冊。

 学生の頃は新聞記者になるのが夢で、大学時代には新聞会に所属しつつ新聞社でアルバイトをし、就職したら新聞印刷工場をめぐって輪転機が回るのをずっと見ていた私は、いまほとんど新聞を読まなくなった。家に届いた新聞を開くのは、週末に靴磨きをするときだけだ。日曜版の真ん中あたりにある書評記事の上にあぐらをかいて、茶色、黒の順で磨く。土曜日にやる場合には、朝日新聞土曜版「Be」のフロントランナーというインタビュー記事を読みながら磨いている。書評は書名だけチェックして中身まで読まないことも多いのだが、フロントランナーに登場する人はたいがい面白く毎週ついつい最後までめくって読んでしまう。
 かくのごとく、新聞に縁の深い人生を送ってきたはずの私が新聞を読まなくなったのは、端的にいって金の匂いのする新聞に嫌気がさしたからなのだが、それでも週に一回は新聞を開いてしまうのは、まだどこか新聞のことが好きなのだと思う。
 先週も、なにげなく日曜版の書評を眺めていたら、資生堂の名誉会長、福原義春さんが岩波現代文庫の『ご冗談でしょう、ファインマンさん』を薦めている記事が目にとびこんできた。この本のことは前々から気になっていて、でも極度の文系人間である私に物理学者の本など読み通せるだろうかという不安を抱いてずっと買っていなかった本だった。文庫なのに各巻1100円というのもけっこう高価である。
 でも、今回はどうしても見過ごしてはいけないというソワソワした気持ちがやってきて、翌日の昼休みに神保町の三省堂に行って買い、すぐに読んだ。おもに楽しいエピソードを語った回想録なので専門的な知識がなくても読めた。そして読み終えて、自分が感じた焦燥感の正体がわかった。

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈下〉 (岩波現代文庫)

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈下〉 (岩波現代文庫)

 私はこの頃、自分の言葉で人と話せていないような不安感を抱いていて、なんとかして自分の言葉を取り戻す、ないしは一から学び身につけて行く必要があると感じながら毎日を過ごしている。そんな自分の気分に、ファインマン氏の言葉が刺さりすぎるほど刺さった。

話す相手が誰であるかなど、ついぞ気にしたことがない。僕の関心があるのは、いつも物理学そのものだけだ。だから誰かの考えがお粗末だと思えばお粗末だと言うし、よさそうならよさそうだと言うだけの話で、いとも簡単だ。

僕はこの講演の最後に、誰も何も本当には理解していないのに、ただひたすら試験にパスし、次に来る者もまた試験にパスできるように教えるというこの自己増殖的なシステムの中で、いったいどのようにして真の教育ができるのだろうか、理解に苦しむばかりだ、と述べた。

どんなに広範囲の人間の意見であろうが、正確にそのものを見ていない人の意見などいくら平均してみたところで、正確な知識を得るためには何の役にも立ちはしないのだ。

諸君に第一に気をつけてほしいのは、決して自分で自分を欺かぬということです。己れというのは一番だましやすいものですから、くれぐれも気をつけていただきたい。自分さえだまさなければ、他の科学者たちをだまさずにいることは割にやさしいことです。その後はただ普通に正直にしていればいいのです。

 ファインマン氏は、自分の頭でずっと何かを考え続けている。それは物理学のことだけでなく、かわいい女の人をどうやって口説くかということだったり、会社の機密書類が入っている金庫はどうやったら開けられるかといういたずらのことだったりする。けれどファインマン氏の行動にはいつも「何かを動かす力」をつきとめようという自然法則への良心的献身があるように感じる。

 良心というのは言葉にすると簡単に見えるが、生きていくなかで行動に反映させようとするといつも摩擦抵抗がつきまとう。見過ごしたほうが人にほめられたり、お金をもらえたりすることがあるものだ。けれどファインマン氏が語るように、そうやって身につけた知識もお金も本当に自分のものになることはなく、ただただ流れさって空しいばかりだ。私はいま空しい感じを日々に抱いているから、あまり自らを欺かないよう、自分の言葉が見つかるまではしばらくこの本を手元に置いて生きようと思った。(波)