その41 余暇の時間を勝ち取るために。
わたし達は時々「あの人にはオーラがある」という言い方をする。その「オーラ」という言葉の本質を明示的に記述した人を知っているだろうか。批評家ヴァルター・ベンヤミンである。かれの言葉を使えば、オーラ(ドイツ語ふうに表記すれば、アウラ)とは「礼拝的価値」のことだ。かれの代表的論文「複製技術時代の芸術作品」のなかで、ベンヤミンは以下のように述べている。
いったいアウラとは何か? 時間と空間が独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを、目で追うこと――これが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない。
で? それがどうかしたのかって?
わたしが言いたいのは、よく企業なんかで「付加価値」という言葉で呼びならわされているものの正体はこの「オーラ(アウラ)」という概念ではないのか、ということだ。
ここに一本のペンがあるとする。紙にインクをのせるという機能だけなら、100円のボールペンで充分こと足りる。では、なぜ何万円もするパーカーやウォーターマンのペンが売れるのか。インクの色、デザイン、限定生産、誰それが使っていたのと同じモデル、メーカーの歴史…などなど、値段をつり上げる要素にはすべて、ベンヤミンの言う「一回性」への志向、アウラへのまなざしが含まれている。私にはそう思えて仕方がない。
昔から芸術作品のもっとも重要な課題のひとつは、新しい需要を――これを完全に満足させる時期がまだ来ていないような需要を――作りだすことだった。
安価な商品の生産と同じ労働時間で、よく売れる値段の高いものを作れば、作り手は時間的な余裕ができ、豊かな余暇を過ごすことができる。勿論、ことはそんなに単純ではないことは承知のうえだけれど、生産性を上げ、同じ労働時間で大量にモノを作ることを進めてきた20世紀の生産モデルがいまだ多くの貧しい労働者を生んでいるいま、アウラについての本を読んでじっくり考えることは意味ある行為ではないだろうか。
帝国主義戦争の残酷きわまる諸特徴を規定しているものは、一方での巨大な生産手段と、他方での生産過程におけるその手段の不完全な利用とのあいだの、矛盾(いいかえれば、失業、販路不足)なのだ。帝国主義戦争は、技術の叛乱にほかならない。技術は、その要求にたいして社会が自然な資源をあてがわなかったために、叛乱を起こし、いわゆる『人的資源』を取り立てている。
ベンヤミンという人はノンジャンルの思想家/批評家なので、著作には断片的なもの、短いものが多い(そして私見では長いものほどつまらない)。その意味で、ベンヤミンの作品を網羅しているちくま学芸文庫の選集よりも、2冊でざっと読め、くりかえし目を通すのに適している岩波文庫のシリーズを、はじめてベンヤミンを読む人にはおすすめしたい。
- 作者: ヴァルターベンヤミン,野村修
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ベンヤミンにはまってる人はぜひ、いまや絶版となった晶文社の全集から一冊は買ってみることをおすすめする。平野甲賀氏による装幀は、著者の思想を十全に表現していて調度品としても最適。かくいう私も、まだ集めている途中です。(波)