その124 自分の使い方がわからなくなった人へ。

 電製品を買っても説明書を読まない人がいるように、人間に生まれても生物学の本なんて読まなくたって生きていける。でもたまに読むと、ものすごい発見があって、世界的にはとっくに発見されていたことを自分が全然知らずに生活していたことに愕然としたりする。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』は、この夏の私に、まさにそんな愕然体験を与えてくれた本だった。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 この本を読もうと思ったきっかけは、立ち読みだった。近所の書店に置いてあった一四歳に向けたブックガイド(『ほかの誰も薦めなかったとしても今のうちに読んでおくべきだと思う本を紹介します。』)で、貴志祐介氏が『利己的な遺伝子』を薦めているのを見つけて、読んでみたいと思ったのだ。でもそれから四ヶ月くらい買わないでいた。いくら凄い本といったって、一九七六年に書かれた科学書を今読んで意味があるのかと不審に思ってもいたのだ。しかし、心の奥底でずっとノック音は鳴りつづけていて、ある週末に、トラヴィスの五枚目のアルバムに収録されている「Selfish Jean」を机で聴いているとき、やっぱり読もう! と思い立ってとなり町まで衝動的に買いに走ったのだった。
Boy With No Name

Boy With No Name

 この本に書かれていることは、貴志氏がインタビューで述べた表現を借りると「生物が子孫を残すために遺伝子があるのではなく、遺伝子が残るために生物が作られた」という考え方だ。私たちは自分という生物をひとまとまりの実体として考え、行動することに慣れているが、この本を詳しく読むと「おのれ」の最小単位は生物個体ではなく遺伝子だとわかってくる。つまりひとりの人間というのは名詞ではなく沢山の遺伝子の指令がひしめきあう動詞なのだ。

 個体は安定したものではない。はかない存在である。染色体もまた、配られてまもないトランプの手のように、まもなくまぜられて忘れ去られる。しかし、カード自体はまぜられても生き残る。このカードが遺伝子である。遺伝子は交叉によっても破壊されない。ただパートナーを変えて進むだけである。もちろん彼らは進み続ける。それが彼らの務めなのだ。彼らは自己複製子であり、われわれは生存機械なのである。われわれは目的を果したあと、捨てられる。だが、遺伝子は地質学的時間を生きる居住者である。遺伝子は永遠なのだ。

 議論がややこしくなるので、ここでは、なぜそうなのかということは説明しない。興味がある人、そんなの嘘だと感じた人はこの本にぜひ、直接当たってください。私は読んでみて、著者の書いたことが間違っているとは思えなかった。
 この本を読むまで、私はダーウィニズムの適者生存という考えを、強い人、頭のいい人、格好いい人だけを大事にする差別的思考であるように偏見をもって捉えていたのだが、全くの勘違いであることを知った。適者、というときの主人公は、人種とか、個人とかではなく、遺伝子なのだ。ダーウィニズムはむしろ、偉人も俗物もみな平等に、遺伝子が使い捨てる乗り物であるという冷酷かつ爽快な視点で世の中の現象を見ることを教えてくれる。
 「ああ、希望は充分にある、無限に多くの希望がある。——ただわれわれにとって、ではないんだ」というカフカのことばがある。大学生の頃に読んで、ずっと忘れられなかった表現だ。このことばがなぜ、自分の心に響いたのかを、私はこの『利己的な遺伝子』を読んでようやく悟った。個体にとってではなく、遺伝子にとっての希望。それは希望であることには変わりがないけれど、決して手に入れることができないものだ。
 もうひとつだけ、この本についてどうしても書いておきたいことがある。それは、なぜ私たちは卵から生まれるのか、という問いを著者が論じていることだ(第十三章)。この答えを知ることは、じつは時間と死を新しい視点で見ることにつながる。この世界に卵と子どもがなかったら、私たちは時間感覚を失う。私たち大人が大きいまま分裂して殖えることができれば、それは不死の世界かも知れないけれどそれは「やりなおすことができない世界」であり「いいことと悪いことに差のない世界」になるはずだ。そして単細胞生物においてはそれは実在している世界なのだ。このことから導き出される結論は「わたしたち人間は改善すべく運命づけられた存在だ」ということだと、私は思う。
 どうして、私はこうなんだろう、という深い悩みを抱えたことのある人に、ぐっとくる一冊だと思います。(波)