その57 日本らしさについて考えたい時に読む本。

 ここで取り上げた、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』という本を読んでから「自分の物語」について考えるようになった。功利主義自由至上主義は「正義」とはなりえず(なぜ、そうなのか伝えるには長くて難しい説明が必要なので、直接本を読んでみてください)人々が共有する「物語」だけが正義の基礎となる、というのが私なりに理解したサンデルの考え方である。生き物として、動物としての快/不快という「感覚的」規準や私たち一人ひとりの頭が判断した「個人の自由」では社会のルールは作れないので、たとえば歴史とか、地域特性とかによって培われてきた文化的な基盤=物語を、個人が想像し、解釈することがみんなの幸せにとってベストな道なのだという。この考え方に、私はすごく共感したのである。

 まちがいなく、ここ最近サッカー日本代表の試合を観ていた影響なのだが「歴史や、地域特性によって培われてきた物語」といわれていま私の頭にすぐ浮かぶのは「日本」である。けれども、日本というのはとにかく掴みどころのない国だというのが正直なところで「これぞリアルで大切にしたい日本」を生活の中で見つけるのはけっこう難しい。初詣には行っても神道や仏教のことはよく知らないし、日本旅館は好きだけど家の床は完全フローリング。こんな私が、いきなり和室に引っ越して毎日作務衣着て家でお茶を点てたりしたら多分人にはモテたいだけの奇行と映るだろう。

 この、毎日の生活にはびこる日本のカオス的状況を開き直って肯定し、わけのわからない文化的状況に言葉を与えてくれる本はないものか。そう思っている人は私だけではないと信じる。日本という物語を正確に信じたい人に、最近私が読み返して、いいと思った本を3冊紹介したいと思う。

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 一つはベストセラーになった内田樹の『日本辺境論』。これはいわゆる地政学的な立場から日本を論じた本で、日本という名称そのものにしてからが、世界の中心である中国からみて日の出る本、という意味を含んでいる。だから日本人は「日本」を主語にして語ることが苦手で「いつもきょろきょろしている」のは仕方ない、という事を明快に語った本。

「日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、『日本文化とは何か』というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません。(中略)制度や文物そのものに意味があるのではなくて、ある制度や文物が別のより新しいものに取って変わられるときの変化の仕方に意味がある。より正確に言えば、変化の仕方が変化しないというところに意味がある」(『日本辺境論』24ページ)

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

 この本はとにかく読みやすいので、2時間もあればさっと読み終わる。でも難点もあって、それは3章の「機」の思想という概念がわかりづらいところ。「世界の中心にいない」という日本人の自己意識は「だから外国のことを頑張って学ばなきゃ」という勤勉に繋がりはするものの、永遠に自分は未熟だという意識をもっているために物事の絶対的な価値を信じることができない。この問題を乗り越えるためには私たちの時間意識を変える必要があるというのがウチダ氏の議論なのであるが、このへんがとってもむずかしいうえ、この新書サイズでは語りきれていない気がする。これが難点。

 ふたつ目は、松岡正剛氏の『日本という方法』。この本、タイトルで内田氏と同じ結論を述べているところが面白い。(松岡氏は「一途で、多様な国」といういい方をしていますが、書いてある主旨はウチダ氏の議論とそっくり)ただ、この松岡氏という人、千夜千冊というwebページでも知られるとおり、ものすごい量の本を読んでいるので、結論を傍証するのにおびただしい数の具体例があげられていて、ここが前掲書と比べてコク深くもあり、疲れる本でもあるところ。(本居宣長が『古事記』のアタマ2文字に「もののあはれ」を見出したとか、大阪新歌舞伎座ファサードに見られる「てりむくり」という屋根の形に「日本らしさ」を見るなんていう指摘を読むと、さすがだと思うのですが…)とにかく情報量の多さにめまいを覚えつつも「おお、そうか…」という気になってくる知識のカタログのような本である。

日本という方法 おもかげ・うつろいの文化 (NHKブックス)

日本という方法 おもかげ・うつろいの文化 (NHKブックス)

 三つ目は(長い…誰かここまで読んでいるのだろうか)漫画家カラスヤサトシのエッセイ漫画『カラスヤサトシ』。別に日本について語ったところなんて格別ない他愛のない4コマギャグ漫画なのだが、日本を肯定しようとする時に大切なヒントがこの本に詰まっているように思えて仕方ない。
 先の2冊がいわば西洋的な思考法で日本を語った本だとすれば、この本は日本的方法で端的に日本らしさを語った本だ。「キモかっこわるい」「時代の最後尾を行く」ガシャポン人形好きの中年男カラスヤサトシと、その周りにいる人々のちょっと面白い自然主義的エピソードを技巧的なところのまったくないイラストで綴ったこの本の魅力は、生活のちょっとしたところに「妙」を見る姿勢にある。「美」ではなくて「妙」だ。「いうにいわれぬ、なんだか曖昧模糊のうちに何か感ずるものがある。それを妙といいたい(by鈴木大拙)」の「妙」である。「ウケる」と「スベる」の境界にある微妙な感情におかしみを見出すこと。飲み干したパック酒の空き箱を両腕両足に装着してバッファローマンの真似をして「めっさかっこいい」と感じる心。レジでおつりを渡してくれるときにそっと下に手をそえてくれる店員のお姉さん目当てで通うスーパーを決めてしまう心。この心と行動の間に1ミリの間隙もないところに、私は日本人としての物語を感じてしまう。それは世界のすべてを知らなくても大切なことがわかるという生活的実感だ。「妙味」という物語を信じているうちは、わたしたち日本人は道を踏み外さない気がするのである。キモくてかっこ悪くても、妙味のある国。ほら、ちょっと住んでみたくなりませんか?(波)

カラスヤサトシ (アフタヌーンKC)

カラスヤサトシ (アフタヌーンKC)