その54 流行にちょっと待ったコールをかける一冊。

 う、アレである。電子書籍。2010年現在、ここ日本で電子書籍は別に流行っていないと思うのだが、私の周りでは、電子書籍について語ることは流行りまくっている。木梨憲武が真似するMr.マリック風にいえば「来てます、来てます、来まくりやがってます!」という感じだ。かくいう私も例にもれず、ここで何がしか自分の意見を表明しようとしているわけだが、こういう時にいつも不自由に感じるのは、新しいことが始まると、変えないことが一つの選択肢になってしまうことである。たとえば今、MDを日常的に使うには努力と根性がいる。録音できるコンポーネントを買おうとしても選択肢が限られるし、今使っているものが故障したら同じものを探すのも大変だ。これが例えばテープなら、あのアナログな音の幅が、とかのたまうこともできようが、質感的な議論をしようと思ってもMDではiPodと勝負できない。あなたがいま、その不自由に耐えようとするなら、たとえば村上春樹くらいの自己統御能力を必要とするだろう。

今では多くのランナーはiPodを聴きながら走っているが、僕は使い慣れたMDの方が好きだ。iPodに比べればいささか機械が大きいし、情報の容量は格段に少ないが、僕にはじゅうぶん事足りる。今のところは僕はまだ、音楽とコンピュータをからめたくはない。友情や仕事とセックスをからめないのと同じように。
(『走ることについて語るときに僕の語ること』文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 なんでMDひとつ語るごときにそんな下世話な例えを使わなくてはならないのか?という突っ込みはひとまず措くとして、ここには重要な洞察が含まれている。可能性と、倫理の問題だ。村上春樹の『ノルウェイの森』に出てくる永沢さんという神話的人物をご存知だろうか?彼は選択肢があり、自分に能力があるとき、それを使わないではいられない男である。学校の成績に関心なんか1ミリも持っていなくても、東大に入って外務省の試験に受かってしまうし、ハツミさんという素敵な伴侶がいながらも、自らのモテ能力をあますところなく発揮して新宿のバーで女の子たちを75人くらいひっかけて泰然としている。しかし彼の末路は悲劇的である。ハツミさんは自ら命を断ち、永沢さんはその死を悼むことなく哀しむ。

「ハツミの死によって何かが消えてしまったし、それはたまらなく哀しく辛いことだ。この僕にとってさえも」僕はその手紙を破り捨て、もう二度と彼には手紙を書かなかった。
(『ノルウェイの森講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

 話が逸れてしまった。電子書籍の話に戻ります。この例え話で私がいいたいことはただ一つ、テクノロジーの新しい波がやってくる時には、「可能性の悲しみ」について心構える必要があるのではないか、ということ。もっと速く、もっと簡単に、もっと美しく、そうやって進んで行く技術に触るときに、ある種の畏れを感じることって阿呆らしくも大事じゃないですか?と思うわけです。それを使うか、使わないかという問題ではなく、快感原理やなんでもありの精神とは別のところで、判断をくだすべきだと思うのです。

 そういう意味で、面白い本に出会いました。マイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』。ハーバード大学での人気授業「正義」を書籍化した一冊。「最大幸福原理―効率主義」や「自由至上主義」といった考えかたの限界を示し「私の人生」という物語を解釈し、その目的にそって判断をくだそうという原理を提案する本。この考え方に賛同するかどうかは人それぞれでしょう。が、しかし新しいものに出会ったとき、自分が信じる物語というのを持っていれば「儲かるから」「可能性が広がるから」という理由だけで行動しなくなる。そういう共同体主義的な考え方をもつ人々に知的根拠を与えるという意味で、とてもよい本だと思います。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

 で、結論。電子書籍についてあなたはどう思うか?
「今のところは僕はまだ、読書とコンピュータをからめたくはない。友情や仕事とセックスをからめないのと同じように」。
じゃあこのブログは何なんだ、という突っ込みが聞こえてきそうですが、それはまた、別のお話。あくまで印刷書籍との出会いのきっかけになればいいと思ってやっておりますです。(波)