その136 日本を愛したい人にすすめる本。

 の頃、自分のなかで日本愛がちょろちょろと岩清水のように湧出しはじめた。それはまるで親の意思で無理矢理結婚させられた相手と暮らしているうちにこの人いいところあるかもと思い始めた全近代的夫婦の心境みたいなものかもれしない。しかし声を大に、というか本当はフォントサイズを大にしてタイプしたいのだが、日本で生まれたから日本が好き、とか福岡で生まれたから福岡が好き、とか思う人の大概は手近なところで自分の好きを処理しただけのおめでたい人ではないだろうか。俺は日本のここが好きなんです、私は福岡のこんなところにグッとくるんですと遣唐使に説明できるだろうか。別に説明できる必要はないかも知れないが、説明できると毎日をより安寧な心境で暮らせると思う。

新編 東洋的な見方 (岩波文庫)

新編 東洋的な見方 (岩波文庫)

 いつも通り前置きが長くなってしまったが、ついに先日私は自分の日本愛の落とし所を見つけた。それは「妙味」である。引っ越しの片付けをしているとき、棚にあった鈴木大拙の『東洋的な見方』を開いてなにげなく読んでいたら、最近自分がはまっているものには共通して「妙」という魅力があることに気づいた。鈴木老師はこんな風に書いている。

いうにいわれぬ、なんだか曖昧模糊のうちに何か感ずるものがある、それを妙といいたい。

 この一文を読んだとき、頭にギュリーンと電球の光る音が聞こえた。「ロマンシング・サガ」で必殺技を思いついた時に出てくるあの音である。このごろ自分が好きなもの。モヤモヤさまぁ〜ず山口晃の絵etc.の魅力はこれだったのかという気がした。不完全なもの、時代とズレたものが生み出す美、一見ぱっとしない対象のなかにある面白味を見る姿勢を表現することばとして自分のなかにとどめ置きたいと思った。

山口晃 大画面作品集

山口晃 大画面作品集

 さっきの一文だけで「妙」を説明することはできないし、かといって『東洋的な見方』のエッセイをここで全文引用するのも難儀なので、鈴木老師がどんなことばに「妙」を見たかについて、引用してみる。それはシェイクスピアの「お気に召すまま」という戯曲の一文である。

A wonderful,
wonderful,
and most wonderful, wonderful!
and yet again wonderful!

 この言葉、音読してみるとなんとも言えずばかばかしくて良い。ちなみに最近私が「妙味」を強く感じたのは、仕事がえり、横浜のそごうで開催されていた山口晃の展覧会に行って見た「メカごこち スターウォーズをおもう」という水彩画である。「帝国紙しばい」という文字の横でダースベイダーが集まった子供のダースベイダー達にメカニックな紙芝居を見せているという絵で、その子供のダースベイダー達がなんともいえず可愛かった。手元の図録にはなかった絵なので、会期に間に合う方はぜひ見に行ってみてください。(波)

山口晃展〜付り澱エンナーレ 老若男女ご覧あれ〜>
 4月20日(土)〜5月19日(日)
そごう美術館(そごう横浜店6階)
10:00〜20:00(入館は閉館の30分前まで)
会期中無休
大人1000円 
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/13/0420_yamaguchi/
新潟市美術館に巡回(7月13日〜9月30日)

その135 誰よりも自分に薦めたい一冊。

 学生の頃は新聞記者になるのが夢で、大学時代には新聞会に所属しつつ新聞社でアルバイトをし、就職したら新聞印刷工場をめぐって輪転機が回るのをずっと見ていた私は、いまほとんど新聞を読まなくなった。家に届いた新聞を開くのは、週末に靴磨きをするときだけだ。日曜版の真ん中あたりにある書評記事の上にあぐらをかいて、茶色、黒の順で磨く。土曜日にやる場合には、朝日新聞土曜版「Be」のフロントランナーというインタビュー記事を読みながら磨いている。書評は書名だけチェックして中身まで読まないことも多いのだが、フロントランナーに登場する人はたいがい面白く毎週ついつい最後までめくって読んでしまう。
 かくのごとく、新聞に縁の深い人生を送ってきたはずの私が新聞を読まなくなったのは、端的にいって金の匂いのする新聞に嫌気がさしたからなのだが、それでも週に一回は新聞を開いてしまうのは、まだどこか新聞のことが好きなのだと思う。
 先週も、なにげなく日曜版の書評を眺めていたら、資生堂の名誉会長、福原義春さんが岩波現代文庫の『ご冗談でしょう、ファインマンさん』を薦めている記事が目にとびこんできた。この本のことは前々から気になっていて、でも極度の文系人間である私に物理学者の本など読み通せるだろうかという不安を抱いてずっと買っていなかった本だった。文庫なのに各巻1100円というのもけっこう高価である。
 でも、今回はどうしても見過ごしてはいけないというソワソワした気持ちがやってきて、翌日の昼休みに神保町の三省堂に行って買い、すぐに読んだ。おもに楽しいエピソードを語った回想録なので専門的な知識がなくても読めた。そして読み終えて、自分が感じた焦燥感の正体がわかった。

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈下〉 (岩波現代文庫)

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈下〉 (岩波現代文庫)

 私はこの頃、自分の言葉で人と話せていないような不安感を抱いていて、なんとかして自分の言葉を取り戻す、ないしは一から学び身につけて行く必要があると感じながら毎日を過ごしている。そんな自分の気分に、ファインマン氏の言葉が刺さりすぎるほど刺さった。

話す相手が誰であるかなど、ついぞ気にしたことがない。僕の関心があるのは、いつも物理学そのものだけだ。だから誰かの考えがお粗末だと思えばお粗末だと言うし、よさそうならよさそうだと言うだけの話で、いとも簡単だ。

僕はこの講演の最後に、誰も何も本当には理解していないのに、ただひたすら試験にパスし、次に来る者もまた試験にパスできるように教えるというこの自己増殖的なシステムの中で、いったいどのようにして真の教育ができるのだろうか、理解に苦しむばかりだ、と述べた。

どんなに広範囲の人間の意見であろうが、正確にそのものを見ていない人の意見などいくら平均してみたところで、正確な知識を得るためには何の役にも立ちはしないのだ。

諸君に第一に気をつけてほしいのは、決して自分で自分を欺かぬということです。己れというのは一番だましやすいものですから、くれぐれも気をつけていただきたい。自分さえだまさなければ、他の科学者たちをだまさずにいることは割にやさしいことです。その後はただ普通に正直にしていればいいのです。

 ファインマン氏は、自分の頭でずっと何かを考え続けている。それは物理学のことだけでなく、かわいい女の人をどうやって口説くかということだったり、会社の機密書類が入っている金庫はどうやったら開けられるかといういたずらのことだったりする。けれどファインマン氏の行動にはいつも「何かを動かす力」をつきとめようという自然法則への良心的献身があるように感じる。

 良心というのは言葉にすると簡単に見えるが、生きていくなかで行動に反映させようとするといつも摩擦抵抗がつきまとう。見過ごしたほうが人にほめられたり、お金をもらえたりすることがあるものだ。けれどファインマン氏が語るように、そうやって身につけた知識もお金も本当に自分のものになることはなく、ただただ流れさって空しいばかりだ。私はいま空しい感じを日々に抱いているから、あまり自らを欺かないよう、自分の言葉が見つかるまではしばらくこの本を手元に置いて生きようと思った。(波)

その134 憧れはBLのなかに。

 十を過ぎてこんなことを言うのも何だが、胸が欲しい。それというのも仕事でBLの棚ばっかり見ているせいだ。BL。もはやおしゃれな響きさえ感じるが今私はBLに影響を受け始めている。BLに出てくる男みたいになりたいと思うのだ。BLといえば聞こえはいいがつまるところホ○漫画である。ホ○漫画に出てくるみたいな男の胸板になりたい。むしゃぶりつきたくなるような胸板が欲しい。

そして続きがあるのなら (バンブー・コミックス 麗人セレクション)

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 どんな胸板がそうなのか、と問われる向きは内田カヲル先生の漫画『そして続きがあるのなら』の主人公である暴力編集者・坂口の胸板を見て欲しい。私は出張中に大阪のジュンク堂書店梅田店ではじめてあの胸を見たとき度肝を抜かれた。絶対バランスおかしいって、と突っ込みながらの彼の胸のことが忘れられなくて、次の出張時に買い求めた。理由は自分でもわからないが、出張に行くとBLを買ってしまう。きちんとカバーをかけてもらった後『北斗の拳』のケンシロウみたいなガチガチの胸板の男が胃の下あたりまである超深Vネックを着て仕事をしていたらそりゃ漫画家も仕事になるまい、とひとりほくそ笑みながらホテルの部屋で疲れを癒した。
 そして出張から帰着するや否や、アマゾンで「ジスタス・スリムトレーナー」なるトレーニング用車輪を購入し毎晩バナナを一本食べて筋トレに励むようになった。この器具安くていいです。
TOEI LIGHT(トーエイライト)  XYSTUS(ジスタス) スリムトレーナーTR   H7218  腹筋ローラー  静音 組立不要

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 BLみたいな男になりたいといえば、ヨネダコウ先生の『NightS』という作品集に収録されている自動車販売営業マンの高見が、私にとって今いちばんカッコいい男である。客にすら笑わないセールスと言われているのに成績抜群で営業のホープ。マネージャーに昇進が決まっても「役職をつけてそれ以上落ちるなって過剰な責任を持たせてるようなものですよ」と現実を見据える男。同僚の女性社員に求愛されてもなびかず、誠実な整備工の男に思いを寄せられて動揺する男。短めの髪をうしろになでつけ、無地のネクタイにかっちりしたスーツ。背は高く顔は少し大きめで、切れ長の目にエラのはったアゴから首のラインがセクシーな男。
NightS (ビーボーイコミックスデラックス) (ビーボーイコミックスDX)

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 でも、キャラクターの見た目の好みもあるけれど、よく考えると私は営業マンと整備工という関係に、そして女性にしか興味がなかった男が自分は男のことを好きだと否定できないと悟った後に決めた覚悟に、憧れを感じているみたいだ。それは仕事で信頼できる相手を見つけたいということであり、プライベートでは周りに認められなくても自分の気持ちに素直になりたいということである。だからBLというファンタジーの要素を通して初めて、私は安全に自分の感情と素直に向き合っているのかも知れない。(波)

その133 フランスのちびまる子ちゃん。

 校生のころの愛読書はさくらももこの『ちびまる子ちゃん』だった。妹の本棚から抜き出して読むのがとても好きだった。社会人になって出張先の静岡を訪ねたとき、清水の商店街で、まる子の好物「甘なっとう」を買った。それを手に提げて、大部分のシャッターが閉まった清水の商店街を歩きながら、なんともいえない物哀しさを覚えた。それは、ちびまる子ちゃんの住む町はあの漫画のなかにしかないという当たり前の事実を実感した瞬間だった。

ちびまる子ちゃん 1 (りぼんマスコットコミックス)

ちびまる子ちゃん 1 (りぼんマスコットコミックス)

 さくらさんが、昔のことを書いているからではない。あの漫画には、さくらさんが小学校のころ人気があった百恵ちゃんだったり、城みちるだったりが出てくるが、リリアンやミルクせんべいといった今はあまり売っていないモノが登場するが、そのひとつひとつをいくら集めて目の前に置いたところで、ちびまる子ちゃんの世界は生まれないということを、商店街を歩いてみて実感したのだった。

 おなじような気持ちで、今愛読している漫画がある。かわかみじゅんこの『日曜日はマルシェでボンボン』という作品だ。かわかみさんは旅先で出会ったフランス人男性と結婚し、フランスに住み『パリパリ伝説』というパリ暮らしを描いたエッセイ漫画も書いている。

日曜日はマルシェでボンボン 1 (愛蔵版コミックス)

日曜日はマルシェでボンボン 1 (愛蔵版コミックス)

 そんなかわかみさんがフランスの女の子の日常生活と、その周りで起きる小さな事件を描いた漫画が『日曜日はマルシェでボンボン』である。主人公ジュリエッタは、ぽちゃ系の八歳。いつも目が横線だけで描かれている。おいしいものと、恋の話が好物。お母さんは売れっ子小説家。お父さんはおしゃれな銀行員。パリからは少し離れたブルターニュ地方に暮らしている。いつも半ズボンできまじめな男友達のマルタン、お金持ちで高飛車で、ブロンド美人だが両親が離婚していることを気に病んでいるミラ。クラスのみんなを馬鹿にしているくせに寂しがりやのイケメン、レミなど、クラスメイトもとてもキャラがはっきりしていて面白い。
 この漫画、著者の人々を観察する視線が、とても繊細かつユーモラスなところがちびまる子ちゃんに似ている。それはきっとどこにもないフランスの町なのだろうと思う。フランスのいいところ。人間の欲望に甘い国、フランス。リスクをしょって愛に生きる国、フランス。現実にあるディテールがなければきっと生まれなかった世界なのに、一度漫画としてひとつ世界が完成すると、それと同じものはこの世のどこにもないという不思議。誰かの頭の中で再構成された異国の町というのはとても魅力的だ。
 私が好きな場面が一巻にある。クリスマスの季節、サンタクロースは本当はいないということをジュリエッタに知らせまいと気を遣う大人たちが、ふとしたはずみからプレゼントを買いに行ったことをジュリエッタの前でばらしてしまう。それに傷ついたジュリエッタは家を飛び出す。追いかけてきたいとこに「大人ってダメだね」と慰められたとき、彼女はこう言うのだ。「そうじゃないよ 信じなきゃ なくなっちゃうよ 何でも そうだよ」と。そして夜空を見つめるジュリエッタがほんとうにかわいい。この漫画の魅力が凝縮されているページだと思った。目の前にあるものがつまらないと感じがちな人に、キラキラした視線を守ろうとする努力の大切さを教えてくれる作品です。(波)

その132 おめでたい日に違和感を感じたときに読む本。

 十年も生きてきて、自分の幸せを疑わない人というのはたぶんいないと思う。それなりに幸せな人も、もっと幸せな人を見て嫉妬したり、いつか突然に訪れる自分の幸せの崩壊をぼんやりと予感して不安になったりするのではないかと思う。幸せはいつもさしあたっての幸せで、その幸せも幾多の不幸との比較対照によって成り立っているのでみんなが幸せになるなんてことは原理的にありえない。
 それとは反対に、自分の不幸を疑わない人は無数に存在すると思う。大人だったら誰しも、これだけは譲れないという自分だけのダークマターのひとつやふたつを心に秘めているものである。不幸は不幸であるかわりにいままでもずっとこれからも不幸であることをやめはしないので、抱えているとなんだかとても安心する。
 そんなことをぼんやり考えるのも、最近読んだ海外小説のアンソロジー『厭な小説』が気に入ったからだ。

厭な物語 (文春文庫)

厭な物語 (文春文庫)

 この本はタイトルの通り世界中から厭な結末を迎える短編ばかりを選んで編んである。死とか死とか死とか死とか暴力とか死とか死の物語だ。掛け値なしの不幸が読める。まじりっけなし悪意100%ストレートジュース11本。作家がまたすごい。アガサ・クリスティーパトリシア・ハイスミスモーリス・ルヴェル/ジョー・R・ランズデール/シャーリィ・ジャクスン/ウラジーミル・ソローキン/フランツ・カフカ/リチャード・クリスチャン・マシスン/ローレンス・ブロックフラナリー・オコナーフレドリック・ブラウン。いわゆる古典からホラー、ミステリー作家まで古今東西文庫オリジナルとして集めてあって、どっか海外で売れたやつを日本でも売れんじゃねえかって適当に翻訳で出してみたなんて企画では全然ない。とにかく最高に厭なものを手摘みで選りすぐりましたっていう作り手の本気が伝わってくる本だ。

 並の死骸ではない。ものすごい死骸だ。犬のやつは少なくともセミトレーラーに、たぶん二、三回は轢かれていた。犬の体が雨になって降りそそいだようなありさまだった。コンクリート一面に体の破片が飛び散り、一本の脚など道路の向こう側の縁石のところで突っ立っていて、ハローと手を振っているみたいに見えた。フランケンシュタイン博士がジョン・ホプキンス医科大学を卒業してNASAの力を借りたとしても、あいつをもとどおりにするのは無理だろう。
(ジョー・R・ランズデール「ナイト・オブ・ザ・ホラー・ショウ」)

 それにしても、いい本、心温まる本をこれはいい本ですって真剣に薦めると自分がまるで馬鹿みたいに思えるのに、厭な本をすすめるとなぜこんなに気持ちが安らぐのだろう。やっぱり私は性格が暗いか悪いかどっちかなのだと思う。両方でないことを祈るばかりだ。だから暗くも悪くもない人にはあまりおすすめしません。この世に溢れる幸せに触れるとなんとなく気分が悪くなる人には全力でおすすめしたい本です。
 読んでどうなるかというと、きっと昨日までのあなたより不幸になります。(波)

その131 絶対に読んでください、と言われた本。

 に薦められなくても読む本と、誰かに薦められなければけっして読まない本がある。単純にその本のことを知らなかったからというより、絶対に読んでといわれなかったら読まないような難しい本や、まじめな本がある。なるべくなら本は誰にも薦められずに読みたい。でも絶対に読んで、と言われたら、私はけっこう読んでしまうほうだ。

 絶対に読んで、と言われた本がある。言われたその日に買って、そのあと一ヶ月間読まなかった。他に楽しい本が沢山あった。それでもやっぱり、あの人が絶対に読んでというのだから読もうと思って、もう一度その人に会う前の日、午前三時に目覚ましをセットして、仕事に行く前と外出中の移動時間にがんばって読んだ。読んで、絶対に読んでと言った人の気持ちがわかった。それは、面白いとか、よかったという気持ちとは別の何かだ。

 『死の淵を見た男 吉田昌郎福島第一原発の五〇〇日』という本が、その本だ。東日本大震災直後、福島第一原発で原子炉にいちばん近いところにいた人々が、どんな風に事故に対応したかを描いたノンフィクションである。事故当時、福島第一原子力発電所所長だった吉田昌郎氏と、原子炉を操作する当直長だった伊沢郁夫氏のふたりを中心に描かれている。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日

 読み終えて残ったのは、このふたりを中心とした福島原発で働く人々への静かな感謝の念だった。非常用電源の保管場所が海面から十メートルの高さにあったために、津波によって水没してしまったことが、事故の被害を拡大させた。だからこの事故は人災だという説を聞いたことがある。もしそうなら、所長である吉田氏と、当直長である伊沢氏にも当然責任はあるはずだ。だからこの二人に対して私は憎しみを覚えてもいいはずなのだが、非常用電源が消失したあと、原子炉を冷やすためにこの二人がどれほど懸命に行動したかを読むと、そんな気持ちはまったく起きない。彼らがいなければ、原子炉格納容器爆発による放射能飛散、という最悪の事態が起きていた可能性だってあると知った。

 格納容器が爆発すると、放射能が飛散し、放射線レベルが近づけないものになってしまうんです。ほかの原子炉の冷却も、当然、継続できなくなります。つまり、人間がもうアプローチできなくなる。福島第二原発にも近づけなくなりますから、全部でどれだけの炉心が溶けるかという最大を考えれば、第一と第二で計二十基の原子炉がやられますから、単純に考えても、”チェルノブイリ×10”という数字が出ます。私は、その事態を考えながら、あの中で対応していました。だからこそ、現場の部下たちの凄さを思うんですよ。それを防ぐために、最後まで部下たちが突入を繰り返してくれたこと、そして、命を顧みずに駆けつけてくれた自衛隊をはじめ、沢山の人たちの勇気を称えたいんです。

 さらにこの本を読むと、事故の現場にいた人たちの名前や出身地、生い立ちが書いてあるので、いわば事故の顔が見えるようになる。するとこの事故を他人の責任として糾弾することが難しくなる。何か特別な悪意があって、この事故が起きたのではないということがわかる。意識しなかったことが罪なのだ。だとしたら、地震が起きるまで福島第一原発の危険性について意識していなかった私が、誰かを責めることなんてできるはずがない。

 著者はこの事故についてどう考えているか。冒頭にはこんな記述がある。

本書は原発の是非を問うものではない。あえて原発に賛成か、反対か、といった是非論には踏み込まない。なぜなら、原発に「賛成」か「反対」か、というイデオロギーからの視点では、彼らが死を賭して闘った「人として」の意味が、逆に見えにくくなるからである。

 また結末にはこんな記述がある。

「全電源消失」「冷却不能」の事態に対処するためには、多額のコストが必要だ。利益を追求する原子力事業者には、難しい判断だったに違いない。
 結局、日本では、行政も事業者も「安全」よりも「採算」を優先する道を選んだのである。それは人間が生み出した「原子力」というとてつもないパワーに対する「畏れのなさ」を表わすものだった。世界唯一の被爆国でありながら、その「畏れ」がなかったリーダーたちに、私はもはや言うべき言葉を持たない。

 私はこのふたつの記述を象徴的だと感じた。原子力発電所というのは私たちの気持ちの内部にある拡大への願望が具体化した装置だと思う。だから、拡大への意志という恐ろしい力に対して、是非を問うても仕方がないし、どんなふうに距離をとってつきあっていくかを、それぞれが決めるしかないように思う。誰をリーダーに選ぶかということより、自分のなかの拡大意志とどうつきあっていくかの方が大事だと、私は思う。

 この本を読んで、忘れられないエピソードを最後に挙げておきたい。この本の主人公のひとりである吉田氏は、事故発生時に現場へと向かっていく部下たちを「法華経の中に登場する”地面から湧いて出る地涌菩薩”」のイメージで見ていたという。彼はお寺めぐりが趣味で、若い頃から宗教書を読み漁り、禅宗道元の手になる『正法眼蔵』を座右の書にして仕事場にも常に置いていたらしい。
 耐えることが困難な極限状態にあって、人を支えたものが宗教思想だったということに、私はとても感銘を受けた。読みづらい本、誰かと話題にすることの難しい本であっても、自分をささえてくれる本を見つけておこう、そんな気持ちになりました。(波)

その130 残念という倫理を学ぶ。

 っとき海外ドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」にはまってずっと見ていた。どこにはまったのかというと、四人の女主人公キャリー、ミランダ、シャーロット、サマンサが休日の朝に集まってごはんを食べながら強烈な下ネタを交えて自らの性愛体験を語る場面にである。さわやかな陽光と豪華な朝食、そしてそこにふさわしくない性愛談義。何をもって幸せとするかは各人次第だとは思うが、私はこのドラマを見てからというもの、マイ辞書で「幸せ」という項目の脳内リンク先にはキャリーたちが語らう場面が登録されている。

セックス・アンド・ザ・シティ シーズン 1 [DVD]

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 最近新しく、そんな自分の幸せリンク先に追加したい漫画を見つけた。宮原るりの『僕らはみんな河合荘』というラブコメ漫画である。ラブコメといってもラブ成分3にコメディ成分7という占有比の代物だ。高校生男子・宇佐が引っ越してきたおんぼろ下宿・河合荘には職業不明で真性マゾの男シロ、スタイル抜群のダメ男掃除機麻弓さん、超人的メイクテクを持つ小悪魔系女子の彩花、そして読書家でめんどくさい自意識を重ねたプロぼっち美少女の律が一緒に暮らしている。宇佐は高校の先輩で下宿家主の娘である律に憧れを抱き、共同生活に胸を躍らせるものの変人揃いの住人たちに恋路を邪魔されて…というのが主な筋書きである。
僕らはみんな河合荘 1 (ヤングキングコミックス)

僕らはみんな河合荘 1 (ヤングキングコミックス)

 弱気で優しい主人公が勝気な家主の娘に恋焦がれる、という設定は高橋留美子の『めぞん一刻』と同じである。『めぞん一刻』になぞらえるならば正体不明の変態男・四谷さんはシロで、セクシーで奔放な朱美さんは麻弓さん、世話焼きおばさんの一の瀬さんには管理人の住子が相当する。つまりこの漫画は『めぞん一刻』という大ネタをサンプリングし、現代風にアレンジした作品だといえると思う。
僕らはみんな河合荘 2 (ヤングキングコミックス)

僕らはみんな河合荘 2 (ヤングキングコミックス)

 この漫画の読みどころは男子高校生が抱く純粋かつ即物的な恋という白い衝動と、すでに恋に恋することを諦めざるを得なくなった大人たちが恋にまつわる幻想をぶちこわそうと放つ黒魔法のような言葉のぶつかり合いにある。具体例をあげてみよう。

シロ「よろしくルームメイト! お互い干渉せず 時々物理的に縛ってね!」
 
麻弓「くそ…… ちょっと下半身新品だからって調子に乗んなよ… あのさ… コンニャクは食い物だぞ?」
 
彩花「繊細って さやかよくわかんないけど 小枝チョコ的な?」

 宇佐と律、ふたりの青春の恋愛というボケ状態に絶えずツッコミを入れる残念な住人たちの日常を見ていると、恋に対して子供でいるのがいいのか、大人になってしまうしかないのか、その間で揺れる自分がコマのなかに見える。恋に馬鹿みたいに溺れて、その後に自分の馬鹿さに気づいて、という自分の感情サイクルとどんな風につきあったらいいのか。その悩みに対する答えはたぶん、誰かと一緒に笑うしかないのだろう。

麻弓「おめーらは あれか 夕焼け青春模様か 焼け爛れろ! まさか どっかで乳くりあってたんじゃねーだろーな 焼け爛れろ!
 
麻弓「なんだ お前ら 朝から何イチャこきやがってんだ? 朝からズボッと生テレビスッキリ!!か 俺のとく種ズームインか」

 つい恋に溺れがちな大人に、恋心の消炎剤として強くおすすめしたい作品です。(波)

僕らはみんな河合荘 3 (ヤングキングコミックス)

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